『恋文の技術』

恋文の技術

恋文の技術

 教授の重すぎる愛により都落ちし、海辺の研究所でクラゲ研究に勤しむことになった守田一郎は、僻地のあまりの侘びしさに耐えかねて、文通武者修行と称して仲間達との文通を開始する。
時には阿呆になり、時には良き先達になり、時には圧政と熾烈に戦い、時には嘘くさく兄貴風を吹かす。
そんな面白可笑しい文通武者修行の中で守田が会得した恋文の技術とは――。



 手紙らしい手紙を書いたのは後にも先にも祖父の葬儀の席だけだろうと思う。
その手紙は火葬されていく祖父の棺に入れた物だ。
誰もそれを読むことがなくて、誰もそれについて応えてはくれない、ただ燃えていった手紙。


 どうして手紙を書くことが出来ないのだろう?
もちろん頻繁に手紙を送る相手なんて居ないのだけど、それでも「元気でやっていますか?」の一言を書き留めた葉書一枚出せるだろうに。
少し気取って便箋を買ってきて、さぁいっちょ書いてみようかね! と張り切ってみても、まず一言目から何一つ思い浮かばない。
便箋にするとたった数行しか書くことがない。
そして何か伝えたいと思うことがない。
ニュースがない。
実は、そんなのどうでもいいから、ただ一言元気だと告げればいいのかもしれない。


 手紙はどうして出されるんだろうか?
手紙を送る人は手紙を書いて出すときに何を思っているんだろう。
送らない自分にはわからない。
それでも手紙が届くと、なんだかそれだけで嬉しい気持ちにはなる。
何通も何通もそれが日々届いたら幸せだろうなと思う。
でも、それにも慣れてしまって段々億劫になっていってしまうんだろうか。
それは少し寂しそうだ。


 手で書かれた文字というのはなんだか尊いもののように感じて、小さなメモ紙に急いで書いたような言葉の列でもとても大事な物に見える。
机に置かれたメモをゴミ箱に捨てるとき、少しだけ胸が痛む。
きっとそれを書いた人の時間と想いを捨てるみたいで、罪悪感を感じてるんだろう。


 取り留めのないことを考えながらキーボードを打つ。
言葉をグニグニと捏ねて、結局纏まらないけど、まぁ楽しいから良いか。
 小説は楽しかった。
やはり幸せになれるなぁ、読んだ後しばらく。
手紙を書くということ、それが凄く凄く楽しそうに描かれているので、誰かに手紙を送りたくなる。
本屋は一緒に便箋を添えて売ったらいいじゃないだろうか。
読み終えた後に誰かに手紙を――なんて。
きっと熱に浮かされて書いてしまうだろう。
ちょうど今は桜が咲いていて綺麗だしね。



元気ですか? 
僕は一応元気でやっています。
最近仕事が失敗続きで、結構長い間落ち込みました。
いつもいつも上手くいくわけではないって事を、こういう事があるとしみじみと実感します。
でも、ちょっと時間が経つとそれも忘れてまた同じ事を繰り返してしまうんだろうなぁ。
また近いうちに時間を作ってそちらに行きたいと思います。
体に気をつけて毎日楽しく過ごしていて下さい。
ではまた。